バキバキな肩

なんでもかくよ

うぃとげんしゅたいん1

ウィトゲンシュタインをやることで、1つの言葉でさえ曖昧なものなのだから、物事を物事のまま言語化することは、不可能。よって、自分の中で曖昧な状態のまま話すことを臆することはないと思えるようになった。

しかも他の人との言語のやり取りの中で、自分の曖昧な言葉を、他の人に換言、批判してもらったりすることの繰り返しの方が、自分の中で明確になるまで言語化するよりも、効率がいい気がする。

1.でも今まさに自分の中で明確になるまで言語化してるっていう矛盾⚔️🛡

2.本を読めばいいから学校は必要ないという考えがあるが、教師は、教科書の内容をその言葉のまま話すのではなく、教師自身の言葉に換言して伝える。換言することは、その事象の意味を、より明瞭に子どもに伝えることになるため、子どもが教育内容を深く理解することにつながる。(本を教科書に集約する過程について飛ばしてしまいました。大事だろうなあ。)

教科書の改定が、国家による学校教育の支配的側面を強調すると言われるけど、教科書の内容を伝えるのは教師の言葉であるからして、その言葉の使用の仕方によって子どもへの伝わり方は異なる。だから教科書の改定によって学校教育が完全な支配下に置かれるってことではないよなあ〜〜